かつての日本の一大産業・石炭鉱業の発展と衰退

エネルギー(再エネ・化石燃料etc.)

明治初期に産業として確立して以降、日本の石炭鉱業は国内の経済発展に大きく貢献してきました。
その道のりは決して平坦ではなく、発展していく過程で何度も厳しい状況に置かれることもありましたが、その度に問題を乗り越え、日本は世界でも高い炭鉱技術と安全水準を誇るまでになりました。

しかし、近年では石炭をはじめとした化石燃料は温室効果ガスの排出量が多い点が指摘され、国内における石炭使用量は徐々に減少しています。
2020年に「2050年までに脱炭素社会を実現する」という目標が掲げられたこともあり、石炭に代わる再生可能エネルギーの普及は、今後ますます進んでいくと考えられています。

確かに化石燃料は環境負荷が高いため、この流れは致し方ないでしょう。
しかし冒頭でも述べたように、石炭鉱業があったからこそ日本経済は急速な発展を遂げることができたのもまた事実です。

世界遺産にも認められた「日本の炭鉱」という一大産業の軌跡を振り返り、新たなエネルギーを構築していくために、今回は日本における石炭鉱業の発展と衰退について見ていきましょう。

石炭鉱業の発祥

石炭の採掘の歴史は、中国の考古学的形跡から紀元前約3490年以降だと言われています。
当初は鉱脈に沿って採掘する手法や、穴を掘った後に底の周囲を鐘の形状に採掘する手法が取られていました。

本格的な炭鉱開発が世界的に始まったのは、18世紀に入ってからのことです。
その理由としては、当時製鉄と燃料の需要が急速に高まったことが挙げられます。

近世に入るまで、製鉄では鉄を精錬するための原料に木炭を利用していました。
しかし木炭は大がかりな設備への使用に適しておらず、また期待される需要に応えるには過大な量の木材を消費しなければなりませんでした。
その結果、製鉄を行っている地域の木材の消費は限界に達し、それにより燃料費が高騰して需要の急激な増加に追い付かなかったそうです。

しかし1612年になると、イギリスで石炭を原料としたコークス(石炭を乾留して炭素部分だけを残した燃料)を使った製鉄法が発明され、その後ダッド・ダドリー、エイブラハム・ダービー1世などの製鉄業者が行った改良により鉄の生産能力が高まったことで、炭鉱開発も飛躍的な発展を遂げるようになります。

日本における石炭鉱業のはじまり(江戸時代~)

白糠町の本岐炭鉱跡

日本では江戸時代末期より、筑豊や唐津(現在の九州地方)などで採掘された石炭が薪の代用として個人消費されていました。
嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結されると、函館などの港の開港により船舶への燃料供給の必要性が高まり、安政4年(1857年)には蝦夷地(北海道)白糠町で日本初の炭鉱が開発されました。
その後、財政が逼迫していた諸藩の陣頭指揮によって、続々と新たな炭鉱が開発されていきました。

当初は軌道に乗らなかったものの、瀬戸内地方の製塩業者向けの販路を見出したことをきっかけに、炭鉱業は急成長を遂げることになります。
当時の製塩には海水塩を蒸発させる燃料に「松やに」を利用していましたが、その松やにが価格高騰したことによって、低価格だった石炭が歓迎されたことが追い風となったようです。
また同じ頃、日本の石炭は外国商船の燃料としても供給されるようになりました。

明治時代

三井田川炭鉱(現在は石炭記念公園)

明治時代に入り鉄道が開通したことをきっかけに、石炭の生産地は全国各地へと広がっていきました。
また国内にとどまらず、上海や香港など海外への輸出も行われるようになりました。

そのような流れを受け、石炭生産量は急速に増加し、明治21年(1888年)には200万トンにも達しました。
しかし一方で鉱山事故も多発するようになったため、明治23年(1890年)には鉱山保安に関する安全規定が設けられました。

明治中期に差し掛かる頃には、技術発展によって人力ではなく機械を使った採掘技術が研究開発されるようになります。
そんな中で、三井田川炭鉱(福岡県田川市)などの主要炭鉱に設置された大きな煙突の姿は炭鉱の象徴となり、有名な民謡である「炭坑節」にも登場しています。

明治34年(1901年)に九州八幡に一貫式高炉が建設されると、鉄鋼製品の国内生産はより本格化していきます。
明治35年(1902年)には石炭の国内生産量は1000万トンを達成し、石炭産業に従事する労働者も急増しました。
明治末期には、約15万人が炭鉱で働いていたと言われています。

大正~昭和初期

1940~1960年代に炭鉱で栄えた軍艦島

日清戦争や満州事変を経てからは、日本国内のみならず、領土となった台湾や満州にも炭鉱事業が拡大していきました。
しかし、第一次世界大戦やロシア革命によって発生した世界恐慌のあおりを受け、日本の石炭産業も未曾有の大不況に見舞われることになりました。
石炭需要は激減し、石炭価格は急激に下落し、休山する炭鉱数や失業者数は一気に増加しました。

1930年代後期に少しずつ経済が回復し、軍需産業、海運業、電力業界などが活況を取り戻すと、石炭産業の需要も徐々に回復していきます。
特に昭和12年(1937年)に日中戦争が開戦して以降は石炭需要が一気に高まり、一時は石炭供給不足に陥る事態にもなりました。

太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入した昭和16年(1941年)には、日本の石炭産業市場最大値である5647万トンの生産を達成しています。
「軍艦島」の通称で知られる端島炭鉱が栄え始めたのも、この頃だったと言われています。

戦後~現代

日本に現存する唯一の炭鉱「釧路コールマイン」(画像引用:釧路コールマイン株式会社

一時は活況を取り戻した石炭産業でしたが、第二次世界大戦の影響により日本の国土は荒廃し、終戦した昭和20年(1945年)頃には、石炭の生産量は2230万トンまで下落していました。
そこで政府は戦後復興政策として、石炭・鉄鋼の増産に集中する「傾斜生産方式」を実施し、昭和26年(1951年)には、日本の石炭生産量は4650万トンまで回復しました。

しかしそれからまもなく、エネルギー分野は大きな変化の時を迎えることになります。
1950年代に中東やアフリカで相次いで油田が発見され、石油が大量かつ低価格で供給されるようになると、工業化の発展に伴いあらゆる交通機関、暖房、火力発電などの燃料として、石油需要は急激に増加しました。
この流れは日本の産業界にも押し寄せ、主要燃料は石炭から石油へ急速に移行していきました。
これは、「エネルギー革命」と呼ばれています。

そして昭和37年(1962年)、エネルギー供給首位の座が石炭から石油になったと同時に、鉄鋼業界では国内産の石炭ではなく、より安価に仕入れられる海外の石炭が用いられるようになりました。
また電力業界でも、石炭よりも安価な石油が主力燃料になりました。

そんな流れの中でも国内の石炭会社は坑内掘りを続けていましたが、採掘条件が悪化したことをきっかけに生産コストは上昇し、経営状況は次第に厳しいものになっていきます。
これ以降、長らく生産を続けていた炭鉱が次々と閉山していき、一時は隆盛を極めた端島炭鉱も昭和49年(1974年)に閉山しました。
そして遂に平成3年(1991年)、石炭鉱業審議会は、国内石炭鉱業の段階的縮小を図ることにしました。

現在、日本に唯一残っている現役の炭鉱は、北海道釧路市の「釧路コールマイン」のみとなっています。
生産量も年間100万トン程度となっており、最盛期と比べると著しく減少しています。
一方で、2020年の石炭輸入額ランキングでは、1位の中国に次いで日本は2位となっています。

そして近年では、太陽光発電システムやエネファームなどの設備が普及したことによって、環境負荷の高い化石燃料に代わり再生可能エネルギーが主流になる「グリーンエネルギー革命」が起こりつつあります。 もしグリーンエネルギー革命が実現すれば、日本の石炭生産量および輸入量も大きく変化すると考えられています。

まとめ

今回は、日本の経済史を語る上で外すことのできない石炭鉱業の発展と衰退について解説しました。
石炭という資源に視点を置いて日本におけるエネルギーの変遷を知ることは、新たなエネルギー社会を生きる私たちにさまざまな教訓を与えてくれることでしょう。

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