公害、産業衰退、エネルギー革命…様々な背景を持つ3つの廃墟地

環境問題

長い歴史の中で、人々はその時その時の経済成長や文明の発展を象徴するかのように、数多の建築物や都市を創り上げてきました。
しかしその多くは時代の流れと共に衰退の一途を辿り、一部はマニアが観光目的で訪れる「廃墟スポット」と化しているものもあります。

数多の建築物が廃墟化した理由としては、日本では主に「バブル崩壊後の経済低迷」「自然災害」が挙げられますが、世界規模で見ると「公害問題」や「エネルギー革命(詳しくは後述)」などが理由となり廃墟化した場所も多くあります。
今回は、様々な背景を持つ世界各地の廃墟地の中から3ヶ所を厳選し、それぞれの「廃墟化するに至った歴史」をチェックしていきたいと思います。

軍艦島(日本)

軍艦島は長崎県長崎市に位置し、かつては炭鉱島として栄えていた島です。
ちなみに一般的に広く知られている「軍艦島」という名は実は通称で、正式名称は「端島(はしま)」と言いますが、今回は「軍艦島」で統一して紹介をしていきます。

軍艦島では1810年(文化7年)頃に石炭が発見されて以降、江戸時代末期までは漁師が時々「磯堀り」と呼ばれる小規模な採炭が行われる程度でした。
しかし明治時代に突入して間もなく炭鉱業者がしばしば開拓を試みるようになり、1886年(明治19年)には1つ目の竪坑が完成したと言われています。

それから4年後の1890年(明治23年)には、軍艦島の所有者が三菱社へ所有権を譲渡したことにより、三菱社による本格的な石炭の発掘が行われるようになります。
1916年(大正5年)には日本としては初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、その外観が「まるで軍艦のようだ」と報道されたことから、「軍艦島」の通称が広く知れ渡ったと言われています。

軍艦島の石炭は非常に質が良かったため、いつしか近代日本を支える主要エネルギーとなり、石炭の需要が高まるほどに島も発展を遂げていきました。
また、終戦直後には島に暮らしていた労働者の多くが島外へ離脱したため一時的に人口が激減したものの、国内外における石炭需要の高まりと共に再び人口が増え、最盛期である1960年(昭和35年)には東京を9倍上回る人口密度を有するまでになっています。
小中学校、病院、映画館、スナック、美容院などが完備されていた当時の軍艦島は、当時としてはまさに「理想郷」のようだったと言われています。

このように隆盛を極めていた軍艦島でしたが、1960年頃に主要エネルギーが石炭から石油へ移行する「エネルギー革命」が起こったことにより、徐々に衰退していきます。
さらに1964年(昭和39年)に島内の坑道で自然発火事件が発生したことが痛手となり炭鉱が縮小され、それにより人口も急激に減っていきます。

そして1974年(昭和49年)1月15日にはついに閉山が決定し、同年4月20日にはすべての島民が島を離れます。
これにより軍艦島は無人島となりましたが、島民が暮らしていたマンションや島民が使用していたテレビなどの家電はそのまま残されていたことから、いつしか「昭和の繁栄当時の様子がそのまま残された産業遺産」と評価されるようになり、近年では多くの人が訪れる人気の観光地となりました。

プリピャチ(ウクライナ)

プリピャチは、ウクライナ北部のキーウ州に位置する市です。
ソ連統治下となっていた1970年に、チェルノブイリ原子力発電所の建設に合わせて創建されました。

創建当時は閉鎖都市として扱われ地図にも載っていませんでしたが、1978年にチェルノブイリ原発の1号炉が、1979年には2号炉が運転を開始したことから徐々に住民を受け入れるようになり、その後も発電所が拡大するごとに人口は増加していきました。
そして1984年に4号機の運転が開始する頃には、チェルノブイリ原発は世界有数の原子力発電所に成長します。
それによりプリピャチ市内のインフラはより高度なものにアップデートされ、人口はますます増える一方となっていました。

しかし、発展への道をひた走るプリピャチとそこに住む人々の暮らしは、1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故によって一変します。
事故当時チェルノブイリ原発では4つの原子炉が稼働中となっており、そのうちの4号炉を保守点検のために止める作業が行われていました。
作業員たちは、この点検の機会を利用していくつかの試験を行おうとしていましたが、その途中で事故が起こり、これにより大規模な爆発と火災が発生しました。

この時、市の幹部や事故当時に原発で働いていた従業員達はすぐに事故の発生を知ることができましたが、事故が起きたのが未明の1時24分だったことから、市民たちの元にはすぐに情報が届きませんでした。
また、市民全体に事故の発生が知れ渡ってからも「どれほど深刻な事故か」ということまでは伝わらず、ほとんどの住民はいつもと同じような土曜日を過ごしていました。

事の重大さを市民たちが知ったのは、翌4月27日になってからのことです。
事故発生から36時間後、ラジオ放送と市内各地の拡声器によって原発事故の発生がようやく大々的に伝えられた後、市民たちは身分証明書と3日分の食料、貴重品だけを持って避難を始めました。
14時に避難を開始してから2時間後には、ほぼすべての市民の避難が完了したと言われています。

避難した市民の大半は、当初は「3日も経てばプリピャチに戻れる」と信じていました。
しかし実際に戻れたのは数ヵ月後で、それも完全なる帰宅ではなく、プリピャチから完全に立ち去る前の一時帰宅でしかありませんでした。
こうして、原発事故の後処理のために残留した消防士、技術者、医師、警官以外の市民は、プリピャチ市内から完全に姿を消しました。

その後、キエフ州の各地には原発事故によって避難した人々のための村が作られ、原発従業員には優先的に移住権が与えられたそうです。
また、原発から東に50kmの場所に計画都市「スラブチッチ」が作られ、プリピャチから避難したほとんどの人々が事故発生年の10月から1988年10月にかけて移住しました。

そして2000年12月、チェルノブイリ原発は完全に停止し、現在も廃炉および解体作業が進められています。
原発事故後のプリピャチはソ連後期に建築された建造物がそのまま残され、市全体がゴーストタウンと化しています。
プリピャチとその周辺の放射変物質が安全と言えるレベルに下がるまでには、まだあと900年はかかると言われています。

デトロイト(アメリカ)

デトロイトは、アメリカ・ミシガン州の南東部に位置する都市です。
南北を「世界五大湖」として有名なエリー湖とヒューロン湖に挟まれており、東側はカナダのウィンザー市に隣接しています。

1805年に計画都市として都市設計されてからしばらくは馬車や自転車製造がさかんに行われていましたが、1903年に自動車メーカー「フォード・モーター」の創設者であるヘンリー・フォードが量産型の自動車工場を建設して以降は、全米きっての「自動車工業都市」として目ざましい発展を遂げるようになります。
その後はフォード・モーター社以外の自動車メーカーも次々とデトロイトを事業拠点とするようになり、デトロイトは「モーターシティ」の名で親しまれる市となりました。
最盛期には200万人近くの人口を有し、そのほとんどが自動車産業に関わっていたと言われています。

しかし、1948年頃より活発化したアフリカ系アメリカ人労働者達による迫害を訴える暴動や、1980年以降のアメリカ自動車産業全体の衰退を受け、デトロイトの人口は減少の一途を辿るようになります。
そして財政も悪化したまま回復することはなく、ついに2013年には財政破綻の声明を出すまでに至りました。

財政破綻後のデトロイトは一気にゴーストタウン化が進み、「全米きってのモーターシティ」ではなく「全米きっての治安の悪い都市」という不名誉なレッテルを貼ら1れるまでになりました。
しかし、近年では廃墟化した建築物を利用して街をパブリックアートで彩る取り組みや、廃墟の雰囲気を活かしたお洒落なカフェの経営などが積極的に行われるようになっています。
廃墟を観光資源として有効活用し、デトロイトが「全米きってのアート都市」として生まれ変わる日は、意外とすぐそこまで来ているのかもしれません。

まとめ

今回は、3つの廃墟地について紹介していきました。
一口に廃墟と言っても、それぞれ異なる歴史を辿った末に廃墟化しているということが分かりましたね。

こういった歴史を知ることは、過去から現在、そして未来に続く世界の動きを知ることにも繋がるため、興味がある方は是非他の廃墟地についても調べてみてはいかがでしょうか。

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